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地図

街は活動していた。自分の中の何者をも動かそうとしない典子とは対照的に。

今朝も早くから車は往来を通り過ぎ、新聞配達のせわしない足音はコンクリートの階段をかけ昇って来た。やがて、ガレージに車のエンジン音は響き渡り、人の話し声、子どもの狂声は狭い路地から路地へこだましていく。

陽が反射して窓がようやく明るくなったなと思うと、時計は早や昼近くを指している。昨夜からの冷えこみで水の出なくなった水道のことを考えると典子は何もできないのが億劫で仕方なかった。が、起き上がることにしよう。

新聞に目を通していると、急に地図を思い出した。

そうだ、N市の中原の住所だ。地図を拡げる。だが典子の持っていた地図は小さすぎて中原の住所は載っていない。時刻表の地図は。もっと小さすぎて載っていない。じゃあN市の隣のM市の地図には、やはり載っていない。典子は、地図にない中原の住所に疑惑を抱いた。もともと、ない住所だったのかもしれない。それを、この数ヶ月、典子は中原の居所として信じていた。だが、実際行って確かめたわけでもない。手紙を出したわけでもない。中原は実在しない住所に居た。いや、居ないのかもしれない。典子の中に住む中原と、この住所に居るはずの中原は、もう同一人物ではないのかもしれない。

—―認めたくない事実を、目の前に叩きつけられたような気がして、典子は茫然とした。だが、それも束の間、典子の心はどこか遠くを彷徨っている。

地図を本棚にしまってしまえば、それで終わりだ。

所在のわからない人間に対して、どうしようもない事がわかった今、典子にできることは一つ。アキラメルことしかなかった。

典子は諦めて立ち上がった。顔を洗って化粧をする。服を着替えてバッグを持つ。ピンヒールのパンプスを履き、5階の部屋を後にして、華やかな典子の戦場へと出発した。

 

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